2010年06月22日

森と山。



一晩を、蛍の舞う川辺の景色の中で過ごして、
翌朝、再び森へ。

見晴らしの無い世界へと独り足を踏み入れるとき、
安堵から引き剥がされる後ろめたさを、断ち切って歩き出さねばならない。




深い緑色の壁の中へと浸透し、閉ざされた視界の中を歩き続ける。
森の恐ろしさを知らしめる強烈な焦燥感は、
孤独と閉塞感の中で増大し、精神の首を絞める。
冷静でいることが何よりも大切だ。

コンパスと、森の地形や傾斜、それから経験を頼りに
推測と引き返しを繰り返しながら、到達すべき場所を目指す。
そんな山行の中で、安堵の中継地点となるのは常に川辺が沢筋だ。

どれだけ困難であっても、川筋や沢は明瞭な道であり、
森ではそこから離れるほど、ルートファインディングは困難になっていく。
上の二枚の写真を見れば、その差は歴然だろう。




これも道。雨の増水時には、こういった渡渉ポイントが連続する。
靴を脱いで、ザックを頭に乗せてゆっくり渡る。


多くの人が、縦走には道があると言うのは、
森を知らないからだ。
富士山や高尾山ばかりが山ではない。
こんな当たり前のことを、もう皆忘れかけている。
遊歩道のような道を歩くことを、縦走だと思っているのかも知れない。

道を見失う困難は、どんな小さな山にも存在する。
クライミングブームで、即物的な危険のみを高いレベルとして捉え、
最も基本的なスタイルである縦走を軽視するのは
日本の山文化の衰退といっても差し支え無いのではあるまいか。

そういう誤った認識が、最も大切である状況判断力を鈍らせる。
これは自分にも言えることだが、自然は一面的な知識と経験で判断するべきではない。
道迷い遭難の多発の原因の一つは、明らかにここにある。

山は整備されすぎ、人は無知のまま山の世界を語るようになってしまった。
加藤文太郎なら、なんと言っただろう。

名登山家を生み出した日本人の一人として、
恥ずべきことなのかもしれない。



タグ :縦走

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Posted by Sinh at 09:29│Comments(2)シマ
この記事へのコメント
同じ様なことを、今日、安曇野の水先案内人クマさんが言ってました。
キケンの判断ができなくなっている。
だから、安全な場所、安全な方法でしかことを起こせず、
結果、キケンの判断ができなくなる、以下繰り返し。
川遊び、海遊びもそうだし、オール電化?
人が他の動物と違うのは、ある側面では火が使えたから、なのにね。

そうそう、新田さんの本、今度貸してくれませんか?
こちらへもリンク貼らせていただきます!よろしくお願いいたします!
Posted by ssez at 2010年07月18日 22:33
□ ssezさん

こんにちは。
ご訪問・カキコミありがとうございます。

あまりに、辺鄙なところですので、リンクしていただいても
誰も来ないかもですよ・・・。(笑)すいません。

危険の判断ができないことはとても危ういことですよね。
人に連れていってもらった経験だけで、山のことを語ってしまう。
こういう人はフィールドではきっと何も出来ないでしょう。
危険です。

新田さんの本、んー何がいいでしょう?
文庫で「孤高の人」あたりからがお薦めでしょうか・・・。
Posted by SinhSinh at 2010年07月19日 18:30
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